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大きく変わる大学

来年からわたし達の大学ではカリキュラムが大幅に変わる。よくもこれだけの変更が可能になったものだと自画自賛したいところだが、その中味はこの「ホームページ」の「8つのコース」「学科目」「留学・学外研修」などに詳しい。コースだけではなく科目名や授業の展開の仕方も変わる。なかでも「読書論」や「セメスター制度」、「セミナー制度」、「学外研修」についてよくご質問いただくので、Q and Aの形でまとめてみた。 

Q : 読書論では何をするのか?
A : 一冊の本を中心にさまざまな話題について論じるユニークな教養教育です。学生の参加意欲と教員の個性・学識が浮かび上がる授業で、純大が特色とする人間的な教育のひとつ。同じ授業を連続して受講し、単位を8単位まで取得することができる。
 
Q : 読書論に「山田読書論」などと教員の個人名がついているのはなぜか?
A : 本を読んで中味を論議する場合、担当教員の見識や人生経験があらわれます。専門の授業でも同じことが言えるが、「読書論」はその傾向がなおさら強い。そこで「だれが担当するか」を明示して、授業の性格を明らかにすると同時に、受講者にも心の準備をしてもらいたいから。
 
Q : 来年度科目を見ると教養科目が少なくなったが、読書論に取って代わったのか?
A : その通りです。読書論では遠慮なく人文科学、自然科学、社会科学などさまざまな分野にわたって論議をしてもらい、「一般教養」よりもさらに深い見識を身につけてもらいたいからです。
 
Q : セミナーでは何をするのか?
A : 専任教員が毎学期担当。教員の専門にもとづいて論文作成や制作、文献分析などを徹底して行います。専門領域によってやり方が異なるが、集中的に学び取ることができる授業です。いくつかのセミナーを「渡り歩く」ことも可能だが、2年次から卒業まで連続して同じセミナールを受講することが可能。
 
Q : 同じ先生の読書論を2年連続受講し、そのうえセミナーを3年連続受講できるということか?
A : その通り。大学では幅広くいろいろな学問にふれることも大切だが、特定の分野を深くおさめることも必要なので、そのための仕組みと考えたい。個人の教師に密着するから、徹底的な人間教育の場でもある。
 
Q : セメスター制度とはなにか?
A : セメスター制度のもとで授業は週に2回開催され、1学期で30回の授業が完結(月+木および火+金の組み合わせの授業)。一度にたくさんの授業を受けるのではなく、限られた数の授業を集中して取ることで教育効果が高まります。
 
Q : セメスター制度と普通の学年制度と何が違うのか?
A : 各学期は独立しています。年間を通して授業が続くのではなく、学期ごとに区切りがつく。そこである学期を休学して社会奉仕活動に参加できるなど、学生の成長をうながすための自由がますことに。
 
Q : 学外実習で単位になるのか?
A : 企業研修(インターンシップ)や子育て施設での実習、海外でのボランティア活動や語学研修、国際交流活動などへの参加者は、一回りもふた回りも大きくなって帰ってきます。教室で座って学ぶよりも、実際の体験から得るものが大きいのです。頭で学ぶだけではなく、体験から学ぶという発想です。
 
Q : 学外研修としてアルバイトなど何でも認めるのか?
A : そうではありません。大学側で研修先を用意します。自分で探すことも大いにすすめますが、その場合には学内で審査のうえ「研修」を認めます。期間や内容により、入手できる単位は1単位から30単位まで。
 
Q : 純大はこのようなカリキュラムで何を目指しているのか?
A : 読書論やセミナーは少人数教育を徹底したものであり、手作りの教育環境に近い。その中で教員の専門分野と人柄にふれ、人間的に成長してもらいたい。本を読む習慣も身につけ、文献を分析して文章を書く訓練もここで行える。
セメスター制度は人間教育や専門教育をさらに効率的に行おうという仕組みだし、インターンなどの学外研修は、体験から学ぶことが大きいという事実に着目した。地球全体が教室だという認識で、人間としてたくましく育つための舞台だと考える。
 

大学の運営ポイントは、ヒト、ヒト、ヒト

企業の経営などでは「人、物、金」がポイントだ、などと言われる。人材をいかに動かしていくか、生産設備などのモノをいかに合理的に効率よくそろえるか、資金繰りをいかにたくみに操っていくかで、企業の命運が決まると言う。ヒト、モノ、カネの統合的で上手な運営管理が、企業の命運をにぎっている。

大学はそうは行かない。極言すれば、モノやカネではなくて、唯一最大の「生産資源」は教員という人材に限られる。豪華な校舎を建てたところで、それはそれなりに話題となるだろうが、長続きするものではない。オンデマンドTVなどの最新教育機器の整った教室をたくさん持っていても、その中で展開される授業がつまらなければ、学生の多くは居眠りするかケータイメールとにらめっこ。

その逆を考えれば明白だ。たとえ雨漏りするような校舎でも、授業がひどく魅力的ならば、学生たちは目を輝かしてついてくる。最新の教育機器がなくても、古びた黒板一枚あれば、その黒板の文字を書いたり消したり、図版を書き換えたりしながら、学生の授業参加をうながす事ができる。むかし自分が受けた教育を考えれば明らかなように、記憶に残っているのは教育設備ではなくて教師の姿ではないか。
 
資金が豊かな大学は奨学金制度を完備したり、学生のアメニティー向上を図ることができるが、それが授業の質の向上に結びつくとは考えにくい。「ないよりはあったほうがマシ」なのだが、資金や設備が「教育」なのではない。
 
あるいは立派なカリキュラムを作り、魅力的な名前の授業をそろえたとしても、中味がお粗末ならばやがて学生たちから見放される。これは大学関係者がおちいる「罠」なのだが、「授業科目が大事でそれを教える教員は二の次」といったやり方を散見する。つまり「メニュー」をそろえれば料理人はどうにかなるということで、相当自由に教員を入れ替えたり、様子の分からない人材を「授業科目」に貼り付けて一件落着としてしまう。
 
科目の名前やカリキュラムの形よりも大事なのが「人材」なのに。某有名国立大学の教員採用方針は、「一に人柄、二に業績」だという。大学教員は研究を深め業績を積まなければならないが、それが一番大事な要素ではない。まずは教える者の性格や品格、人間性なのだという思想は、まことに的を得た考えだ。
 
二流の大学に限って教員の業績ばかりに注目する傾向がある。だから学問的には深いのだろうが人間的には?という教員が存在することになる。わたし達は「リベラルアーツ」教育をとなえ、全人教育を実現する大学なのだから、教員の人間性はますますもって大事な話になる。では純大の教員はみんなすばらしい人格者か、と言われればいささか?なのだが(笑)。