シカクを取りたいですか(その1)
何がとは明確に言えないにしても、太陽の雰囲気がどことなく夏の終わりを告げるようになると、また学校の季節が始まる。森閑としていたキャンパスにも、学生の声がちらほら聞こえるようになり、にぎやかだったセミの声に取って代わろうとしている。
青い海や緑の山をあとにして、学生は何のためにキャンパスにもどってくるのか? 苦労を重ねてガクモンをおさめ、高い授業料を支払うのだが、それは何のためか?
この質問を大学の新入生や高等学校の卒業生(受験生)にぶつけると、必ずと言ってよいほど返ってくるのが「資格を取って社会で活躍したい」という答えだ。私たちの大学の場合には、「中・高英語教員免許」「小学校教諭免許」「幼稚園教諭免許」「保育士資格」などがそれにあたる。つい最近まではそのほかに「中・高音楽教員免許」「中・高美術教員免許」「学芸員資格」などもあった。
この大学の英語教育の伝統があるためだろうか、「英語を身につけて国際社会で活躍したい」「外国人とコミュニケーションを図ることができるようになりたい」などという反応も少なくない。大学外の「資格」も人気があり、英語関係の検定試験や漢字の検定、カラー・コーディネーターの資格などというものまでそろえてある。
相手はか弱い女子大生、ないしはその候補者だ。できる限りの「資格」を身につけて、それを武器にして社会をわたっていこうと考えたとしてもおかしくはない。履歴書にだってたくさんの資格を書き連ねたほうが、就職に有利に決まっていると。男性が何かと中心の世界では、ほそ腕の味方は資格なのだと。
この考え方は本当に正しいのだろうか?たぶんあまり正しくない発想だ。企業の採用担当者などがとっくの昔にお分かりのように、いくら資格を身につけていても、つまらない人物ならば就職が難しいのではないか?蓑虫のように資格を身の回りにたくさんぶら下げていても、中味がお粗末ならば相手にされないことになりはしないか?
いうまでもなく、資格は一つの「きっかけ」にはなるだろう。しかし企業が必要としているのはエネルギーのある、やる気のある、あるいは優しい人格者だったのではないか。教員の免許を持っていなければ小学校に就職できないが、小学校が必要としているのは教育に情熱をかたむけ、子どもの可能性を伸ばし、子どもの好きな人物だ。たんなる免許の保持者ではなかった。
新入生や入学候補生に聞けば「資格、資格」というものだから、世の大学はついつい「資格コース」をたくさん設けて顧客サービスに走ろうとする。「免許」や「資格」がすべてであるかのように錯覚してしまいがちだ。私たちの大学も似たような道をたどってきた。人間教育よりも資格教育に価値があるかのように考えがちであった。
しかし18歳やそこらで「大学で何を学ぶか」などということが分かっているほうがおかしい。若者たちは弱い立場にある。あるいは世のなかの本当のありようが分かっていない。だから「資格を取って・・・」などと言いがちだ。その若者たちの表層的な言説に惑わされては、大学が大学でなくなる。知的なものを探求する心を養わずに、職人教育ばかりに力を入れたのでは、就職ひとつも難しくなる。人間的な幅を身につけることなく、技術ばかりを磨いたとしたら、相手にしてくれる組織というのはあるのだろうか。
見事な発音で英語があやつれるようになったとしても、話していることの中味がお粗末ではコミュニケーションが成り立たない。ぺらぺらと月並みなことばかり言ったのでは、まっとうな相手として認めてもらえない。国際社会で活躍するには、相手をうならせるほどの「人格力」を持っていたほうが有利に決まっているのに、そのへんのカラクリが分かっていない。
ということで、私たちの大学では資格取得も勧めるが、それよりも人間力をみがくことを推し進めようとしている。他者への深い思いやりやバランス感覚、与えられた情報を鵜呑みにしない批判精神、人生を俯瞰できるユーモアの精神、我慢を重ねながらものごとを達成する克己心などなど。実現は容易ではないが、本物のリベラルアーツ教育こそは、コクサイ的に通用する教育ではないかと考えてのことである。