A子さんのケース(自分再発見型)
大学というところは、中産階級予備軍だけを養成するところではない。昔オトーサン、オカーサンがまだ貧しかったころは、大学を出て、どこでもいいから良いところに就職して、とにかく収入を得ることが「目的」であった。女子大の卒業生は、良いお嫁さんになれば永久就職が成就した。
しかし時代は変わった。衣食足って礼節を知る、というのであろうか。飽食の時代になって、だれでも大学に入ることができるようになると、就職ではなく、もっと本質的な問いかけが大学に対してもなされるようになってきた。大学って何だ?
大学とは社会の風潮に迎合する人材だけを養成するのではなく、むしろアンチテーゼを提示し、社会のありようを問いかけ、従順な「Yes person」にならない教育をするところだ、というのが歴史上の「最高学府」の役割だったのではないか。つまり大学の姿を昔に戻すという再定義の必要にいまや私たちはせまられている。社会の木鐸としての発想を英語では critical thinking と言うが、その翻訳は「批判精神」というよりも「構造的思考」としたほうが良さそうだ。社会のあり方に客観的な目を向け、何が狂っていて何がまっとうかの判断のできる強靭な精神をもち、その結果としてより人間的で、より豊かで、より生きがいのある社会を形成する要員を準備するところが大学だ。
A子さんの場合である。私どもの大学が売りにしている「小学校教員養成」にひかれて入学した。教員養成の授業はそれなりに新鮮で、自分のためにもなったのだが、大学で「構造的思考」に目覚めてしまった。いくつかの授業を取っているうちに、世界の各地に異なった構造を持つ文化があることに気付かされた。美術や音楽など目を見張るばかりの人間精神の輝きを、歴史は今の私たちに残してくれていることに気がついた。何よりも、地球は緑にあふれて、変化に富み、ワクワクする世界であることに気がついた。
ということで進路変更。「小学校教員免許はあきらめました。バックパック背負って世界放浪がしたいです」などといい始めた。こちらはあわてて「でも中学校・高等学校の英語教員免許くらいは取ってくださいね」などとブレーキをかける始末。でも教育者として、内心「ニヤリ」なのである。
そりゃ卒業生全員に幸せになってほしい。お金に困ることのないような人生を送ってほしい。でもそれよりも大事なことは、他人様の役に立ちながら、本人が充実感をもって生きること。構造的思考という「知性」を一生の財産として、この世界がより精神的に豊かで、より輝かしいものになるお手伝いをしてほしい。
A子さんは私たちの大学に籍を置きながら、モンゴルの大平原も、アフリカの砂漠も、ヨーロッパの教会建築も自らの体内に取り込んでしまうことであろう。それは小学校の先生という夢を捨てて進路変更というケースだが、こちらのほうが本人にとっての「真実」であろう。大学に入ってはじめて、ホンモノの「知」を獲得する必要性に気がついたということであろう。さすが若者。
そんな学生の進路転換は、「知の塩」として存在する大学としても本望なのではなかろうか。私たちはそのような若者の「気付き」を支援するべく、A子さんのような学生には審査のうえ単位を与えることになっている。「カラハリ砂漠のブッシュマンの人生設計」などというレポートが、はたして何単位に値するというのか。どうかその行方にもご注目いただきたい。
シカクを取りたいですか(その2)
自分の専門分野の話で恐縮だが、アメリカの第7代大統領はアンドリュー・ジャクソン(任期1829-37)という西部出身の人物だった。民衆中心の西部的な発想をホワイトハウスに持ち込んで、アメリカの政治や社会をより民主的な制度に変えたというので、その行為を「ジャクソン流・デモクラシー」などという。
一連の「民主化」の過程で、国家による免許制度を廃止した。その理由というのはこうである:医師とか弁護士などが裕福で社会的地位が高いのは、「免許」を取得したからである。その免許は国家なり行政府が与えたお墨付きだ。すなわち政府の手によって「特権階級」が形成されている。
特権階級を認め、これを政府の手で作るというのは、民衆の国アメリカの理念に反している。だから免許は廃止してしまう、というのである。
そこでどうなったかというと「自由化」がおこった。自分に医術の力があると考える者は、だれでも医者になることができた。こうなると念力で病気治癒をはかる「医者」なども現われた。いまだに英語で He read the law (彼は法律関係の本を読んだ)といえば、「法律家」を指すのだが、弁護士を開業するには「専門書を読めば」それでよかった。ちょっと利口な人間は先生になることができた。だれが医者でだれが教師か、だれがまともな弁護士かなどという判断は、利用者・消費者の責任ということになった。
混乱も生まれ免許廃止は行きすぎだという意見が高まり、やがて時代が変わって、今では州政府の手でほとんどの免許制度は復活している。
それにしてもこのエピソードから考えさせられるのは、政府によるお墨付きと特権階級形成の仕組みだ。私たち大学も国家のお墨付きをもらってダイガクをやっているし、その権威を背景に「学士号」を授与している。教員免許などの各種免許も「与えて」いる。そのおかげで大学の「威信」も保たれるし、何よりも経営が成り立っている。
ジャクソン大統領みたいな政治家が日本に現われて、お墨付き廃止を実現したらどうなるか。えらそうにガクシゴウなど授与していること自体が、こっけいなことになるだろう。各種免許を与えるためにいろいろ苦労していることが無駄骨になり、資格、資格と騒ぐことは空騒ぎに過ぎなくなるだろう。
まあ現代社会ではそんなことにならないだろう、とタカをくくっているのだが、恐ろしいことにこれは他人事ではすまない問題をはらんでいる。物事をグローバルで考えた場合に、差し迫った現実の問題として立ちはだかる。インドネシアのカリマンタンで、ガクシゴウがあるなどといっても何の役にも立たない。アフリカのチンブクツでセンセの免許があると主張しても、ホンモノ以外は信用してもらえない。
卒業生が海外に出かけるようになると、大事なのは表層上のお墨付きよりも、人間的な中味であることが判明してくる。資格があると言うなら、本当のプロフェッショナルでなければ相手にされないことが分かってくる。
ということで、世界に通用する人材を育て、世界で認められる資格を与えなければならないというプレッシャーの中に、いまの日本の大学はおかれている。ホンモノの人材養成をおこない、チンブクツでもジャクソンの時代でも通用するような、ホンマモンの卒業生を送り出さなければならない・・・・
ホンモノ教育は並大抵の仕事ではないのだが、私たちの大学でもカリキュラムでお分かりの通り、おそまきながらと言うか、大胆にもと言うか、いまそれを目指そうとし始めたところなのです。