私たちのクリスマス
2009-12-18 11:34
12月はクリスマスの季節。私たちもクリスマスから正月にかけての冬休みを、「クリスマス休暇」などと言うことがある。ちまたではにぎやかに「ジングルベル」の曲が流れたりして、みんながいそがしく浮き足立つ。
ミッション系女子大のクリスマスは、さぞかし華やかなのだろうとお考えかもしれない。でもそうではない。クリスマスコンサートや子供向けの出し物をやったりはするが、意外と静かで落ち着いている。学校はカトリック(キリスト教)の修道会が経営母体で、クリスマスに関しては「元祖」に近い存在ゆえに、その静かさはホンモノだ。でも本当のクリスマスというのは、静かで、落ち着いて、いろいろ考えさせられる季節ではないだろうか。
私たちが本当にお祝いしているのは、サンタクロースではなく、およそ2000年前に生まれた人物の誕生だ。幼少のころは大工さんだったお父さんの手伝いなどしていたが、まもなく家を出てしまう。アラビア半島の砂漠で精神的な修行をしたといわれているが、くわしい事はわかっていない。ちょうど大学生の年頃だ。そして30歳を過ぎてから、ふたたびユデアの地にもどって、いろいろなところで自分の考えを述べた。たくさんの聴衆や弟子が集まったが、その教えや行動を記録したのが「新約聖書」。
そのふしぎな人物は、心のこもっていない「形式」がきらいだった。「愛」がなければガンガン鳴っている鐘の音だって意味がないなんて言ったりして・・・・だから法律の解釈論議ばかりをやって一日を過ごす「律法学者」と対立したりした。タテマエだけで他人を裁く人間や、目の前の貧困などを見つめようとしない態度にがまんがならなかった。
そういう発想だったから当時の権力者にもにらまれ、敵もできた。扇動に乗った民衆の敵意も生まれ、最終的には処刑されてしまう。でもいまその言葉を読み返してみても、一連の思い切った発言は、意外と真実をついていることに気がつく。今日でも通用するような話が多い。
エライ人の言うことや、世の「常識」、流行、などには怪しげなものが混ざっていることをその言葉から教えられる。じっさい私たちの身の回りにも、「変な常識」が満ちあふれていると思う。「偏差値が高い」ことは本当に「頭がいい」ことなのか? お金もうけをすることは、他人の役に立つ人生よりもエライ人生なのか?
クリスマスとは、そういう一見へそ曲がり風の発言をした人物の誕生を祝うとともに、世の中の常識や「正しいこと」をもう一回考え直し、そのなかで人間としてもう一度生き返る(自信を取り戻す)時間なのではなかったか。歳末大売出しとは関係がなかったはずだ。
私たちは大学で宗教(キリスト教)を強制したり、礼拝を義務付けたりしていない。しかしながら、世のなかの「常識」や「正しいこと」をもう一度考え直し、学生が人間としてもう一度生き返り、いっそう充実した人生を送るための、知的なお手伝いはしているつもりなのだ。静かなクリスマス休暇は、より豊かなホンモノの人生を送るための、内省の時間でもある。