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私たちの「自由」

2010-01-22 15:35

この大学の設立母体はいうまでもなくキリスト教(カトリック)の女子修道会だが、そのキリスト教の基本的な考え方のなかに、「キリスト者の自由」というのがある。自由などというと抽象的で難しそうだが、そんなことはない。「大事なのはあくまでも生身の人間なのであって、その人間を助けるために規則やルールなどの決まりごとがある」という発想だ。 

キリストの弟子たちが麦の穂をつんで食料とした、という話が聖書のなかに出てくる。その日は一週間に一度の休息日であり、当時の掟(おきて)では休息日に働いてはいけないことになっていた。キリストの敵たちはそのありさまを見て、「規則を守らないでなぜ休息の日に食料を調達するのか」とつめよった。キリストとその一行はルール違反ないしは違法行為をしているではないか、というわけだ。
 
そのときのキリストの答えがおもしろい。「休息日は人間のためにあるのであり、人間が休息日のためにあるのではない。だから人間のほうが上なのだ」。つまりおなかが空いた「人間」を中心にすえて考えた場合、人間は規則よりも上位にある(約束事からの自由)というわけだ。
 
私たちの教育も、そういう精神を基本としている。決まりごとや約束事は人間(学生)のためにあるのであり、その逆ではない。何よりも大事なのは「学生が成長する」ということであり、ただ単に規則を守らせることにあるのではない。規則は大事だが、学生が成長するときに、社会性を獲得して規則を守ることも自然と覚えていく。
 
教育というのは生身の人間を相手にしたまことに人間的なことがらで、やっかいな事に規則とか法律、ルールなどになじまないことが多い。ナスやトマトを育てるときも、規則で育てるのではないでしょう。一列に並べておいて全員が同じ条件で物事を行う、などということは理想かもしれないが、現実には不可能に近い。授業で英文法を教えるにも、帰国子女もいるし、おなかの痛い人もいる。お金のない人も、プライドの高い人もいる。
 
規則やルールというのは、たくさんの人間をひとまとめにして動かすには便利だが、その便利なシステムを教育に持ち込むのは問題だ。ひとりひとりの顔が違うように、人間のおかれた状況はひとりひとりちがう。だから教育の仕方も本当はひとりひとりちがっているはずだ。しかしその「ちがい」を正面から受け止めながら教育事業をやるとなると、コストも労力もかかるので、これまた不可能に近い。
 
私たちは小さな大学だ。小さいということはいろいろ不利なこともあるが、じつはこの教育がかかえている矛盾(個別に対応できないのに対応する必要がある)がより少ないという利点を有している。学生ひとりひとりの悩みに耳をかたむけ、その人物に見合った教育を展開し、個人のニーズにあった就職先の斡旋などがやりやすい立場にある。
 
ここは学生全員の顔が見える大学であるとか、手作り教育の大学だなどというが、その本質的な部分にひとりひとりの立場、すなわち「違いを認める」という思想がある。そのちがい(多様性)は、全体を統合するという「規則の論理」に従わない傾向がある。すなわちキリスト者の自由がある。