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春先のあったかい話

世のなかの「常識」では、18歳人口の減少とともに大学入学者の数が減り、ぜいたくさえ言わなければ、誰でもどこかの大学に入ることができるようになった。なるほど、ここまでは正しい。でもその先の常識はどうだろうか。すなわち少なくなった入学希望者をゲットして大学に囲い込み、学生の数を増やして経営の安定をはかるため、それぞれの大学は「顧客獲得競争」におわれ、必死の状況にある・・・・・
 
この二番目の「常識」は、半分だけ正しい。たしかに入学者の数が少なければ経営的に苦しくなるし、大学の存在自体がおびやかされる事になる。ニュースなどで見るように、閉鎖に追い込まれた大学がないわけではない。しかし、だからといって、大学はお互いがライバルなのであり、大きくて有名な大学は、小さくて名のない大学から学生をうばいとり、し烈な生存競争のただ中にあるのか?
 
このような言い方は、「強いものが弱いものを淘汰する」というジャングルの法則を単純に当てはめたものに過ぎない。ジャングルの法則は市場経済なる発想をも生み出したが、はたしてそれは「教育」に当てはめることができるのか? 市場(マーケット)がすべてを決めるという市場主義が、現代のわれわれの考えを支配していることは認める。しかしながら、市場原理主義みたいな考えが、社会の根本原理であるとする考え方にくみすることはできない。とくに教育という営みや、人間の価値、人生の喜びなどは、経済概念の範疇外にあるのではないか。
 
じつは「ジャングルの法則のなかの大学」という通念を破るような出来事が最近おこった。大学間の競合(competition)ではなく、協力(cooperation) が実現したという話である。
 
2010年4月から、上智大学と東京純心女子大学は、学生の交流計画を発足させる。原則として5名の学生を、互いに1年間にわたって迎え入れる。授業料はおたがいに免除。参加者は相手先の大学で、年間10単位(2科目半くらい)まで取ることができる。勉強した授業科目、単位はそれぞれの母校でそのまま認められる。
 
これを皮肉な言い方でくくれば、「東京純心にとっては広報効果があってよかった」ということになる。純大にいけば(名前の通った)上智大でも学べるという宣伝効果が考えられるからだ。逆に上智にとっては、たいしたメリットのない話だということになる。
 
本当にそうだろうか。それは市場の力学だけを考えたものの言い方なのではなかろうか。純心側には上智とは異なる学風もあるし、上智にはないような授業もある。たとえば巨大なパイプオルガンをそなえており、その演奏にかけては日本でも屈指の教授がいるなど。
 
そもそも純心大学は八王子の山間にあり、環境は良いのだが学生たちが広い世界を見ないで卒業することが多い。今年の4月のカリキュラム改正で、学生に「世界」を体験してもらい、力づよい人生観を打ち立ててもらうため、外国での体験、企業でのインターンシップ、日本の僻地やホスピスなどでの活動などを授業として認め、単位化することとなったが、他大学での体験=他流試合も望まれるところだった。
 
そこで学生の関心も高く、建学の理念を同じくする上智大学がとりあえず最適との考えから、交渉・折衝が継続して行われ、今回の話となった。
 
おかげで双方にとっての刺激効果が生まれる。毛色の変わった学生がクラスに存在することで、多様性が増加し、授業が活性化する。学生の成長も期待できる。ひとつのキャンパスで4年間を送り、「これが大学だ」と思い込むのではなく、多文化にふれることによって、人間の幅が広がる。
 
教員の緊張感も出てくる。マンネリ教員や「こんな程度でいいだろう」と手を抜く教員にとって、他大学の学生がいるということは、適度の緊張となり、授業内容の向上につながるという期待がもてる。そして総合的に、双方の学生、授業、大学がより活性化し、学生にとっての充実感もあがるだろう。
 
この困難な時代に、学生を一人でもたくさんかき集めたい、という気持ちは山々だが、「自分の大学だけが良ければよい」などというのは幻想に過ぎないことは明らかだ。みんながそれを考えて実行したら、共倒れにつながる発想だが、大学はもともとお金儲けや、一人で勝ち残るために作られたのではない。それぞれの建学の理念や教育に対する思い入れがあって設立された。だから市場原理主義の呪縛からはなれて原点にたちもどり、そういった大学どうしの共同体ができても良いではないか。
 
今回の上智大とのお話は、「ともに栄える」システムの先駆けなのではなかろうか。そういえば、上智大のキャッチフレーズは、「Men and women for others, with others」だった。他者のための人間、他者とともにある人間、といったほどの意味であろうか。こうした考え方といい、今回の協力関係の樹立といい、市場経済の考え方からは「思いもよらない」ことがらであろう。
 
でも現代社会の常識なるものが、「非常識」なのかもしれない。長い人類の歴史からすれば、弱肉強食などという思想は浅薄なものだし、大きいことは良いことだなどというのは、せいぜい100年ほど前に出てきた規模の経済の産物に過ぎない・・・・などということを問いかけるのが、大学の役割でもあった。

口語体のダイガクを目指して

本屋さんをうろうろする楽しみ。そうかこんな世界もあったのか、えっそれはあんまりでしょう、などと興奮はおさまるところがない。これが自分の専門分野となっても、恥ずかしながら様子は変わらない。
 
学術誌を読み、学会に出て最近のトレンドをつかまえる、一次資料を参考に自分で論文を構築する、現場で体験を重ねる、などという大学の研究者ほんらいの努力をしないで、本屋さんで、あっこんな研究が出ている、えっあの人がこんな本を、などと興奮して研究書を買い込む。そういう本が並べてあるのは学術系の書店だから、こういうことを繰り返している大学教員を皮肉って○○善学派などという。
 
こうして買い集めた本を斜め読みして授業に出ると、どういうことになるか。自分でもなまかじりの中身であるため、それを聞いている若い学生にわかるはずがない。「なんだか立派そうな話だけれども、よくわかんないや」ということで、心の中で切り捨てられる。
 
でも学生は若くて消費者として未熟だ。授業がよくわからないのは自分が悪いからだと決め込んで、黙って聞いたふりをしてすごす。へたに反抗すると単位がもらえないという打算も働く。いっぽう沈黙のお客様を相手に、教員のほうはますます図に乗って、「みんな自分の話に感銘して黙って聞いていた」などと考えてしまう。
 
自分が秀才だと思い込んでいる学生には、それも効果がある。「よくわからないが高度な学問に触れた」というエリート意識がくすぐられて、とにもかくにも前に進んでいこうという意欲につながるからだ。でもほとんどの「正直な」学生には、わからないものはわからない。
 
そういう悪循環が繰り返され、学生はやる気をなくしてしまっている、教員は堕落のきわみ・・・・などという大学が、この日本にないわけではない。
 
私たちはそういう状況の中で何をしようとしているのか。端的に言えば「よくわかり、面白くて、ためになる」授業を展開したく思っている。ただこの表現は誤解を招きかねないので、説明を要する。
 
それはエリートを自認する学生を相手に、小難しいことをやるつもりはないということだ。むしろいままで学問の機会に恵まれなかった娘たちに、「本物」を与えることこそ教育の本質だと考えている。たとえば私たちが大学の特色として掲げている「リベラルアーツ教育」は、欧米では「できる」学生向けのやり方だった。しかし私たちは「さほどできない学生のためのリベラルアーツ」を開発しようとしている。
 
 
 
具体例を出そう。小生の米国史の授業で、独立宣言を起草した第三代目の大統領トマス・ジェファソンが出てきたとする。しかしその話はフランス啓蒙主義だの近代合理主義だのという概念を振り回さずに、「青森県八戸のおばあさんも面白いと思うもの」である必要がある。

八戸のばっちゃんに通用するアメリカ史なんて至難の業だろうが、それを作り出して学生に与える必要がある。歴史学に限らず、いまそういう授業を数多く繰り出すことができれば、学生の納得も得られるだろうし、大学の評判も上がる。そういう授業は、じつは「優秀校」でも通用するし、社会的にも必要とされている。

いままでのガクモンのあり方を変えてわかりやすいものを開発する力が、私たちに求められているわけだ。ということは本物の教育力、教員の人間力が試されている。

生煮えの「学問」を受け売り風に講義する授業ではなく、自分の体温で暖めて発酵させた、ものの考え方を提供。これが実現すればガッコも変わるし、日本の学界も変わるし、社会も変わる可能性がある。何よりも学生たちが、わかる授業を通じて自信を身につけ、大きく変身する!

というのが私たちの大学の意図するところだ。それは大きくいえば知の世界の再編の試みであり、文語体ではなく口語による知の再構成の意欲だ。教育そのものの再生である。