口語体のダイガクを目指して
2010-03-10 14:15
本屋さんをうろうろする楽しみ。そうかこんな世界もあったのか、えっそれはあんまりでしょう、などと興奮はおさまるところがない。これが自分の専門分野となっても、恥ずかしながら様子は変わらない。
学術誌を読み、学会に出て最近のトレンドをつかまえる、一次資料を参考に自分で論文を構築する、現場で体験を重ねる、などという大学の研究者ほんらいの努力をしないで、本屋さんで、あっこんな研究が出ている、えっあの人がこんな本を、などと興奮して研究書を買い込む。そういう本が並べてあるのは学術系の書店だから、こういうことを繰り返している大学教員を皮肉って○○善学派などという。
こうして買い集めた本を斜め読みして授業に出ると、どういうことになるか。自分でもなまかじりの中身であるため、それを聞いている若い学生にわかるはずがない。「なんだか立派そうな話だけれども、よくわかんないや」ということで、心の中で切り捨てられる。
でも学生は若くて消費者として未熟だ。授業がよくわからないのは自分が悪いからだと決め込んで、黙って聞いたふりをしてすごす。へたに反抗すると単位がもらえないという打算も働く。いっぽう沈黙のお客様を相手に、教員のほうはますます図に乗って、「みんな自分の話に感銘して黙って聞いていた」などと考えてしまう。
自分が秀才だと思い込んでいる学生には、それも効果がある。「よくわからないが高度な学問に触れた」というエリート意識がくすぐられて、とにもかくにも前に進んでいこうという意欲につながるからだ。でもほとんどの「正直な」学生には、わからないものはわからない。
そういう悪循環が繰り返され、学生はやる気をなくしてしまっている、教員は堕落のきわみ・・・・などという大学が、この日本にないわけではない。
私たちはそういう状況の中で何をしようとしているのか。端的に言えば「よくわかり、面白くて、ためになる」授業を展開したく思っている。ただこの表現は誤解を招きかねないので、説明を要する。
それはエリートを自認する学生を相手に、小難しいことをやるつもりはないということだ。むしろいままで学問の機会に恵まれなかった娘たちに、「本物」を与えることこそ教育の本質だと考えている。たとえば私たちが大学の特色として掲げている「リベラルアーツ教育」は、欧米では「できる」学生向けのやり方だった。しかし私たちは「さほどできない学生のためのリベラルアーツ」を開発しようとしている。
具体例を出そう。小生の米国史の授業で、独立宣言を起草した第三代目の大統領トマス・ジェファソンが出てきたとする。しかしその話はフランス啓蒙主義だの近代合理主義だのという概念を振り回さずに、「青森県八戸のおばあさんも面白いと思うもの」である必要がある。
八戸のばっちゃんに通用するアメリカ史なんて至難の業だろうが、それを作り出して学生に与える必要がある。歴史学に限らず、いまそういう授業を数多く繰り出すことができれば、学生の納得も得られるだろうし、大学の評判も上がる。そういう授業は、じつは「優秀校」でも通用するし、社会的にも必要とされている。
いままでのガクモンのあり方を変えてわかりやすいものを開発する力が、私たちに求められているわけだ。ということは本物の教育力、教員の人間力が試されている。
生煮えの「学問」を受け売り風に講義する授業ではなく、自分の体温で暖めて発酵させた、ものの考え方を提供。これが実現すればガッコも変わるし、日本の学界も変わるし、社会も変わる可能性がある。何よりも学生たちが、わかる授業を通じて自信を身につけ、大きく変身する!
というのが私たちの大学の意図するところだ。それは大きくいえば知の世界の再編の試みであり、文語体ではなく口語による知の再構成の意欲だ。教育そのものの再生である。