カエサルのものはカエサルに
このブログをお読みの方はすでに分かっていることだが、わたしたちの大学はじつに豊かな可能性に恵まれている。それは後ろに控える滝山の自然だけではない。
たとえばまっすぐで純粋な学生たち。それは彼女たちが描く美術や、かなで出す音楽にも現われていた。彼女たちの語る人生観にも現われていた。
世のなかには、社会に背を向けたり、引きこもったり、落ちこぼれていく若者も多い。その逆に「過剰適応」する者も多い。こちらは優等生だと思われているふしがあるが、これも「病んで」いる。過剰適応のばあい、社会の流れに乗り、対人関係もそつがなく、会社の面接でも好印象を与えたりする。表面的には「うまく世渡りしている」ように見えるが、じつはその「つるつる人生」が問題だ。人生への疑問、社会のあり方に対する真摯な問いかけ、真理追究の努力などを置き去りにして「うまく泳いでいる」うちに、やがて抑圧された「本物の人生」「置き去りにされた本当のわたし」が心の中で反乱を起こして、人生のどこかで痛い目にあう。
まっすぐで純粋な東京純心女子大の学生たちは、引きこもりではないが、過剰適応型でもない。素朴ではあるが健全な「探求型」であり、それは何にも増して貴重な資質だったのではなかったか。廊下を歩いていると「学長先生のような自由型がこの大学でやっていけるの?」などといわれて、あまりにも本質的な問いかけにこちらが腰を抜かしそうになる。授業が終わるころに、「先生、生きる意味は何だ?」と問われたときには、<この娘は真剣勝負を挑んでいる>と直感して、テキトウにありきたりの返事をすることをあきらめた。
まっすぐに真剣勝負で生きる若者は、もたもたした感じもあって、目の前の就職には不利かもしれない。本当すぎて欺瞞に満ちた社会に入っていけない。でも人生の大きな流れの中で、貴重な収穫を手にするはずだ。彼女が死ぬときの収支決算は、豊かな精神性の余剰で輝いているはずだ。わたしたちの大学の可能性とは、そんな彼女たちのことだった。
あるいはキリスト教の伝統。それは必ずしも抹香くさい話で終わらない。前回に述べたように、大学と関係が深い「隠れキリシタン」の精神性は、現代社会への際限のない問いかけを投げかけている。大学は今こそ、その存在意義を発揮できる立場にある。
お金儲けだけが人生の目的ですか? <リーマンショック後の世界> <差別の中で貧困だったキリシタン>
政府とかお上はいつも正しいですか? <エジプトやリビアの民衆vs政府> <島原の乱や殉教者の数々>
精神や学問は身体的なことか? <概念と論理が主人公だった「近代」は超越できるか><マリア観音>
などとあげ出せばきりがないが、現在の世界のさし迫った問題は、すでにご先祖様たちが経験済みだった! このような豊かな土壌の上に大学が立ち、偏差値を超越して良質な若者を迎え入れている以上、かならず活路が見つかるはずだ。
そう思ってこの3年間がんばってきたが、いかんせん、偏差値や「近代」の超越の可能性はあっても年齢の超越はありえない! こちらもそろそろ賞味期限の切れる年頃となってきた。ということで、4月からはもっと若い学長が誕生します。
新学長はカトリックのシスターで、まさにキリシタンの本流をいく立場。この大学は原点に返り、ますますその立場を強化していくでしょう。初代学長もシスターだった。創設者もシスターだった。いにしえのローマのことわざに、「カエサルのものはカエサルに」とあるように、学長室の鍵はシスターに手渡されます。
このブログ、結構たくさんの方々に読んでいただいていました。思わぬ方々から声をかけていただいてこちらがびっくり、などということが多々ありました。長い間のご愛読ありがとうございました。そしてたくさんの励ましのおことばありがとうございました。
そして最後の「ありがとう」は、まっすぐな学生たちに捧げます!