「教えてあげる」から「いっしょに考える」大学へ
2010-08-04 14:20
あまりにもできすぎた話なので、真偽のほどは定かではない。だが私の大学時代に、先生からじかに聞いた話である。
その先生はときどき神田の「洋書屋」に行って専門書をながめたのだが、目新しい学術書があると、有り金をはたいて全部買い占めた。持ち金がない場合には、その専門書を別の棚に移すか、ひっくり返して目立たないようにしてから店を出た。
競争相手が手に入れる前に入手してしまうか、相手が見つけることができないようにしておいて、「情報の独占」をはかり、学会で少しでも有利に立とうとしたのだという。まあ似たようなことはいまの「学会」でもおこっている。いち早く学説や情報を入手して、得意顔で学会の会合などで発表する。それが学者としての先進性や見識の証であった。
ひと昔前の自分の話。大学の研究室にすわっていると、O善やK国屋といった本屋さんがやってくる。こちらの専門分野をあらかじめ調べていて、「先生こんな洋書が出ました」とばかりに新しい本を紹介してくれる。「ああそうだね」とばかりにそれらの本を購入しているうちに、その分野の新しい研究に関してはいっぱしの知識と見解を有するようになる。これを称して「丸善学派」などと皮肉ったものだ。つまり自分の足で学会に出たり調査を行なったりして学問の最先端に立つのではなく、本屋さんの持ってくる「最新情報」でそれなりの立場を保つというわけだ。
学生はこちら以上に若くて無知な者が多いし、最新の洋書など読んでいるわけがない。そこで読んだばかりの情報をかみ砕いて講義をすれば、「あの先生はなかなかモノを知っている」などと評される。学生たちは一生懸命ノートを取って「貴重な」情報を書き留めている。たとえ丸善学派であっても立派な授業が成り立つというものだ。
それから何十年もたった・・・・・。かつての貴重な情報は、いまやインターネットの上にあふれているという時代になってしまった。「ウィキペディア」などの無料の百科全書もあるし、ネットを探しているうちにたいていの情報は入手できる。学生の中には「オタッキー」なこだわり屋さんもいて、特定の情報に関しては大学の先生以上の物知りもいる。専門知識は本屋さんで専門書をひっくり返してももはや隠しきれなくなっている。
そこで大学の先生は困ったことになる。知識を教壇の上から授けているだけではウィキペディアに負けてしまうわけだ。せっかく新鮮な情報を入手しても、それはすでにネットに出回っている可能性が大きい。下手なことをしゃべれば自分以上にくわしい学生からの反撃だってありうる。
すなわち知識を切り売りする、という大学教員のあり方は、もはや過去のものとなってしまった。「教えてあげる」という大学のビジネスモデルは、変革を余儀なくされているのである。教え授けるという意味を内包した「教授」などという呼び名は、もはや冗談か物笑いの種にしかすぎない。
最近の若者は本を読まないので無知なものが多い。だからその無知に付け込んで「こんなことも知らないの」とばかりに「知識」をひけらかすことは可能だ。「これだけは覚えなさい」とばかりに知識を強要することもできる。何せこちらは単位を与えるか与えないかの権限を持っているのだ。だがネットの時代に、知識の独占や知識を売りにした権限などは成立し得ない。
情報過多の時代の、新しい大学ビジネスモデルなどは存在するのか?大学教師や大学の存在意義などはあるのか?かつての大学などはなくなってしまい、学士号や教員免許など国家が管轄する「免許」を発行するだけが大学に残された役割なのか?
私たちの大学では、このような「大学危機の時代」に直面して、何をしようとしているのか。我田引水とはこういう事かも知れないと思いつつ言わせていただければ、今こそ「原点に帰りつつある」。創設者のシスター江角が考えていたような大学に立ち返ろうとしている。
それは知識を詰め込むよりは、ともに考える大学。上から押し付けるよりは、学生が自発的に自らの知識や知恵を獲得していく大学。教員は知識の卸売りをするのではなく、自らの知識と知恵と人格が融合したありさまを示すことによって、若い人たちのヒントとなるような教育機関をめざそうとしている。
これを「全人教育」とか「人間の価値を認める教育」とか「個を尊重する教育」、「手作りの教育」、「キリスト教的ヒューマニズムに基づく大学」などと表現することができるのだろう。こうした古くて新しい教育は、小さくて吹けば飛ぶような私たちの大学だからこそできる得意技だとも言える。
コンピューターの時代になって、古い教育の原点に返りつつあるなんて、なんてアイロニカルなのであろうか。でも人間の体温のある教育機関なんて、なんだか素敵だ。そういえば「古いことは新しい」「温故知新」などという考えもあったっけ。
